wvogel日記

自分用の技術備忘録が多めです.

記憶

今日帰りの電車の中でちょっと思い出したので
というか、最近よく思い出すので、一度アウトプットしようかと思うことが。


※これはあくまで自分のための記録です。なら日記に書けよ、とか自分でも思うのですが、あとで見返すときのこととか考えるとブログが一番気楽だしお手軽だからここに書いてしまう。


12月18日だったはず。
友人らと食べ放題に行こうと出掛けたその先で、喉に違和感。

(この一週間程前入院していた時に感じたものと同じ感じ。今までに感じたことのない咳の出方だったので、口にティッシュを突っ込むと血斑が。外科の主治医に診てもらうと喉が荒れてるとのこと。なんとなく引っ掛かりを覚えながら退院)

長年こんな事あると勘も少しはついてくるというか、ヤバい、っていうのがわかる。
立ち止まり、口に手を入れて血を確認しようかと思った矢先、激しく咳が出てきて血が溢れる。
顔に血が上り、鼻からも血が出るし耳も痛いし。とにかく器官が血で塞がれ息が出来ない。
119にTellするため携帯取り出すけど、あまりの事にどっかに飛んで行ってしまう。


幸いだったのが、友人が傍にいたこと。
血を掻き出し気道を確保する間に救急車呼んでくれたり傍に居てくれたり。
なんとか病院に着くが、その頃には収まっていて、検査しても何も出ない。医者も何だったんだろう、私も不安を抱えながら23日に退院が決まる。


ウイルス性腸炎に運悪くかかり、退院延びた

25日に退院決定、退院前に髪だけ洗っていくかということで洗面台で洗髪していると、また激しい咳、鮮血。


敢えなく毎度毎度の事、正月を病院で明かす。
1月4日?あたりかな、このあたりから若干記憶が曖昧なんだけど。
外泊許可が出て帰宅。でも、冬休みの家庭科の宿題があったので、カルボナーラをちゃっかり作ったあたり私は偉い。
姉と母に食べてもらい就寝。


その晩、深夜3時くらい?寝てるときに感じる鼻血、鼻から喉にかけて血が流れるのを感じ、面倒臭いなあと思いながら起き上がってティッシュを探す。
このときは流石に自分でも迂闊だと思った。体内からの出欠が食道を通って頭まで逆流してたとは、その時は予想できなかった。
死ぬかと思った、ていうか、そうしたいと感じた。この時多分初めて絶望を感じた。


でもこのときも私は偉かった、左手を赤く染め上げたけど、ベッドや子機には一切血をつけなかった!あとで妹と姉がそう言っていました。
ティッシュを手繰り寄せ、右手で子機を握り内線。家族全員が目覚め、搬送。
ここで私の意識は失われる。


次に目覚めたのはいつだろう.....
友人が来たのが、1月30日前後のはずだから、1月25あたり。
初めて眼が覚めたとき、自分は自分じゃなかったですね。
あれは麻酔のせいなんでしょうけど。
今となっては笑い話だけど、一種の錯乱状態?に近いのかな、自分は本当に死んだと思っていたし、死ぬときの映像もしっかり、今でも思い出せる。
とにかく、祖母が姿見せるまで、私の家族はもう誰もいない、というような錯覚に陥っていました。
祖母が来たときどれほど安心したか。


でも
なぜか部屋の記憶が曖昧。
祖母に会ったのは、4人部屋くらいの広さの部屋に私のベッドと、昔遊んだゲーム機、C言語の本とか、祖母が最初会ったときに持ってきてくれたお菓子がずらずら窓際、ベッドサイドに積んであったけど。


母に会ったときには、今流行りの酸素カプセルのような形態のところに私が寝ていて、狭そうに母が泣きながら入ってきて、POMERAどうする?とかそんな話して。


次に母に会ったときには、ICUのような部屋にいて、ベッド自体は普通なんだけど、動物好きの若い看護師長さんがいて、馬の出産とか窓越しに見させてもらったり、深夜に少年が私の部屋にポテチ持って隠れ込んできたり、姫が牛の世話をするとか言って、干し草と牛を私の病室に連れ込んで横に牛寝かせたりとか。


深夜、ものすごい吐き気に襲われて、イメージとしては、なめこのような感じの血の塊を苦しい思いして吐き出したことも覚えてる。
そのICUのような部屋に居るときに、けんぴらがきて、私のベッドの足元の薬入れに「本入れとくね」と言って入れてくれたのも覚えてる。


でも、後で、少し声が出るようになってから親にそのことを話したら、祖母も母にも会ったけど、それ以外は全部ありえない、って言うんです。
まあ確かに普通に考えたらそうなんですけど、でもすべて祖母に会った後のことだから記憶はあるはず。
確かに本をもらったし、干し草臭いあの病室の匂いも鮮明。
今でも、この時系列がまったく附に落ちないんですけどね。
あの少年は結構夜頻繁に来てたけど、あれも幻覚?
血を吐くのも幻覚?


それはさておき、意識が戻ったあと。
記憶がある程度戻ってから気づいたけど、12月18日以降の記憶を失っていました。
だから、血を最初に吐いてからの状態が今だとずっと思っていて。
親にクリスマスとかカルボナーラの話をされると、確かにやったような記憶、ないこともないけど、でも有り得ない、てな状態。


しかも
友人から沢山メール来ていて、返信しようと寝たきりの状態で携帯を手に..........持てない。
携帯電話が重すぎるんです。
  人間の筋力は、使わなくなってから2週間で急激に低下するそうです、私は3週間だったのでそりゃもう。
家庭科の料理のレポートも書かないといけなかったけど、姉に代筆を依頼。
ペンを持てないし、体を支えるだけの筋力がない。


とはいえとはいえ。
頑張りましたよ私も。当然ですけど。
当時やんちゃ夫婦で有名だった人から手紙をもらったので、これは自分で返事を書かないといけない!と思い、2日くらいかけて書きました。何を書いたか今ではさっぱり思い出せないけど。漢字は繊細さが要求されるので平仮名で書いたような気がする。


しばらくして、ICUを抜け一般病棟に移動。
歩行訓練しようか、ということで立つ補助を看護師さんがしようとやってくる。
あほらしい。いくら筋力落ちたって自分で立てる、と思って手を払い除け足を地面に、立ち上がる。崩れ落ちる。
驚愕。
しかも、寝たきりだったので、このとき初めて自分の体を良く見れた。
見るのも辛いくらいに、骨と皮ばかり。足の膝周辺の窪みとか酷かった。良く見ると手も足も胴も。
ちなみに、通常私の体重は50程度ですが、この当時35kg程しかありませんでした。


でも一般病棟に移ってからは、一般病棟に移るだけのことはありますね、1ヶ月ほどで以前ほどとは言わないけど体重も筋力も戻ってきて無事に退院。


ただ、あのときの記憶の矛盾の真相が今でもわからない。
それが知りたくて、ときどきこんなことを思い出す。